
―これからの生き方―
まず、始めにご献眼頂きました故人の方々に深く感謝申し上げますとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
私は3歳の時に激しい下痢の続く腸炎を起こし、その後、その影響からか、両目の角膜が濁り、黒い瞳が灰色になってしまいました。
両親は慌てふためき、近辺の眼科医院を回りましたが、どこも、「この眼は治らない」との診断でした。
そんな中で、大阪市内で代々眼科医院を開業されている先生から、「うちへ来なさい。これ以上悪くならないように。」と言って頂き、それ以来、ずっと先生が亡くなられるまでの数十年間、月1回ペースでお世話になりました。
お陰で、濁った角膜でも、両目とも視力は0.7を維持できていましたが、40代に左眼が、視点の中心が見えなくなる中心性網膜炎を何回も発症し、その都度、治療して頂きましたが、ついに、左眼の視力は0.2に落ち込んでしまいました。
しかし、幸いにも、右眼の視力は、ずっと0.7を維持できていましたので、日常生活には、特に不自由もなく、無事、公務員を定年まで全うすることができました。
しかし、5年位前から、急に、薄暗い階段を踏み外したり、夕暮れ時に自転車で車道から歩道に入る時、かなりの段差があるにも、それを視認できず、思いきり転倒するなど、見えていないための事故が多くなりだしました。
道で出会う人も、かなり近づかないと分からなくなりました。
特に、暗い夕暮れ時とか、天気の良い日差しのきつい屋外では、白っぽく眩しく、極端に、見えにくくなってきたのです。
唯一、頼りにしていた大事な右眼ですので、大きな病院の眼科や眼科医院を回りました。
しかし、どこも、「見えにくくなったのは、角膜の濁りが更に進んだのかも知れないが、これは治療できない。」ということでした。
それでも、何軒目かの眼科医院で、0病院への紹介を頂き、0先生にお世話になることになったのです。
そして、昨年の4月に右眼の角膜移植の手術をして頂きました。
約2週間の入院生活となりました。その間、視力はまだ出ませんでしたが、何よりも驚いたのが、病室から見る景色に、今までに見たことのない明るい空の色、木々の緑の鮮やかなことに、感激しました。
小さな孫が見舞いにきた時、手にしていた絵本を見て、赤、青、緑、黄色は「こんなにきれいな色だったのか!」と感動しました。
今までは、どの色も何枚も重ねたオブラートか、くすんだビニール越しに見る色だったのです。
私にとって、世の中の色彩は、物心ついた時から、手術して頂くまでの六十数年間、偽物の色で過ごしてきたのです。
諺での意味合いが違いますが、まさに視界的には、「目からうろこが落ちる。」そのものでした。
そして、その後、順調に経過しまして、今年の1月末に視力検査では、0.9までに良くなりました。
このように右眼はだんだん良くなり、喜びの毎日でしたが、その良くなった右眼の明るい視界に、左眼のかすんだ灰色の暗い影がうっとうしく感じ、ついつい、人と話すとき、左眼をつむるようになり、相手からその指摘を受けるようになりました。
それを先生に話すと、「視力は、そんなに期待できないが、視野は、確かに、明るくなるでしょう」と左眼も、今年の7月に角膜の移植手術をして頂きました。
今で、約3か月経過しましたが、だんだん良くなってきました。中心性網膜炎を何回も繰り返し、今まで諦めていた左眼ですが、少しずつ、暗い影が消え、視界が明るく、広くなってきたことに大変感激しております。
68歳で右眼、そして69歳で左眼の角膜移植手術を受け、来月には70歳の古希を迎えます。
まさしく余生ともいえるこの年になって、お二人から貴重な角膜を頂いたことにより、私の人生観が変わりました。
きっと、このお二人は、暖かい、やさしい性格のお人柄で、素晴らしい人生を送られた方と思います。
そのお方が私の中で、私のこれからの生き方を見つめておられる。
今、その思いが、大変強くなってまいりました。
大きなことはできませんが、残された人生、人のため、世の中のために役立つお手伝いに精を出し、少しでも、微笑んでもらえる日々が、多くなるよう実践してまいりたいと考えています。
終わりになりますが、ご献眼者様とそのご遺族の方々、そしてその素晴らしい技量で手術をして頂いた先生に、重ねて厚くお礼を申しあげますとともに、ご支援頂きました大阪アイバンク様に心から感謝いたしまして、ご挨拶とさせて頂きます。 有難うございました。
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